朝聞道、夕死可矣。(論語)
朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。
学校で習ったのか忘れましたが、妙に聞き覚えのある言葉ですね。
小学館の中国古典の便利辞典によると
朝、真理の道を聞くことが出来たなら、その晩に死んでもよい。
と、あります。
孔子さん気が早くないかい?
朝、真理の道を聞いて夜には死んでも良いって…実践する時間無いやん!(笑)
それとも知的欲求が高すぎて、知っただけで満足してしまうのでしょうか。
それくらい孔子さんは道(タオ)を追い求めていたと学校で習った気がしますが、逆に言うとそれくらい孔子さんは人生に迷っていたという事ですかね。
自分の生きている意味とは…?
人生の価値とは…?
正しい生き方とは…?
みたいな。
もしかすると孔子の人生に迷って投げやりになった時の言葉かもしませんね。
「チクショー!何が正しいか分かんねぇよ!もしこれが正しいって教えて貰えたら夜には死んでも良いってくらい分かんねぇよ!」
と、いう言葉かもしれない。
思考放棄じゃないか孔子よ。
ちなみに諸橋轍次さんの中国古典名言事典では
もしも、朝、真実の人の道を聞き、これを体得しえたならば、その夕べに死んだとしても、それで悔いはないのだ。人間のあり方、生き方を知ることは、それほどにも重大事なのである。
と、訳してあります。
こちらではちゃっかり体得しちゃってますね(笑)
しかし朝聞いて夜までに体得出来るものなのか(笑)
原文の朝聞道、夕死可矣を直訳すると
「朝道を聞いたら、夜に死んでも良いや〜」としか書いてないですもんね。
解釈の仕方は人それぞれ。
それが面白い所ですね(^^)
ちなみに道が本当に道路の事だったらどうしましょうね。
道に迷いすぎてて、正しいルートを教えて貰えたら嬉しくて死んでも良いって思います。…あれ?同じような解釈になりましたね。
なんにせよ人生に迷っている感じがしますね。
けど正直私は正しい生き方なんてものは無くて、人それぞれ自分なりの生き方を決めればそれがどんな生き方であれ、正しいんだと思うんです。
すまんね孔子さん。