久しぶりに父親と電車に乗って遠出した時、父は耳が遠いからか、それとも話に熱中していたからか、大声で私に話しかけてきた。
電車の走行音に多少掻き消されるとしても、それでも前後左右の人には内容が筒抜けレベルの声量だったと思う。
何度かもっと静かな声で話そうと伝えようと思ったが、そこでハタと思った。
そもそもなぜ電車内で大声で話してはいけないのだろうか?
他の人の迷惑になるから?
そもそもこの迷惑という言葉万能過ぎる。
人によって迷惑か迷惑でないかの基準は違うと思うのに「迷惑」という一言で表されると、何も言えなくなるぐらいの力を持っている。
と言う事で、とりあえずどんな条件で迷惑となるかを考えてみた。
まず自分の車の中で大声で話していても迷惑だとは言われない。
つまり1つのキーポイントとして他人が周囲にいる事が挙げられる。
次に大人数が喋っているパーティー会場で大声で話しても迷惑だとは言われない。
つまり周囲が静かか、もしくは周囲の人も話しているかどうかがキーポイントとなりそうである。
以上の2つから考えると電車内にいる人が全員大声で話していたら、我々も大声で話していても迷惑ではない。
と判断出来る気がする。
要するに同じ行動をするにしても周囲の状況で迷惑か迷惑でないかが判断されるようになるらしい。
なるほどこれが人目を気にする日本人という奴なのかと少し面白く感じた。
ちなみに中国ではどうだったかなと思い出すと大声で喋る人は喋るし、黙ってる人は黙ってた。
歌ってる人は歌ってた(笑)
しかし他人が大声で話しているのを見るだけでもドギマギしてしまうというのは一体どういう理屈からなのだろうか?
そこも分析してみると、おそらく自分は昔から他人に迷惑をかける→叱られるのコンボを食らいすぎていて、迷惑をかけている人がいるだけで、この人が叱られる、もしくはこの人を怒る人がいるかもしれないという恐怖を思い出す事によってドギマギしてしまうのではないかと考えてみた。
しかし大声で話している父本人は非常に楽しそうなので、そういう認識は無いようである。私が繊細過ぎるのか父が図太すぎるのか謎だがハッキリ言って羨ましい。
とりあえず誰かに怒られたらスミマセンと謝れば良いやと開き直って過ごしたが、内心ドキドキだった。
電車内で流れる「大声で会話するな」というアナウンスは、それによって不機嫌な人を発生させるリスクを減らす為のものなんだろうなと認識する反面、どれだけ色んな人に忖度しないといけないんだと思えてゲンナリともする。
リクライニングも後ろの人に声かけるとか謎のルールが出来てたり、それに対してホリエモンは「そんなくだらない声かけで俺の時間の邪魔するんじゃねぇ」とキレたり…果てさて何が正解か分からない。
そもそも学校以外の場で正解を求めようとするのが間違いで、己の理論をもって自分の行動に責任をとる事が大事なのでは。と、最近つくづく思う。
そして他人の行動は他人の行動として滅多な事では口出ししない。
それが一番スムーズに生きるコツなんじゃ無いかと考えた今日この頃であった。