なんで忘れていたのか自分でも不思議だけど、いきなり昔の恐ろしい記憶を思い出した。
それはいきなり隣の人が家に入ってきて墨をぶちまけた事だ。
隣の家の人の事を母は「精神障碍者」と呼んでいた。今でいうメンタルヘルス疾患のある人なのかもしれない。
我が家は母が書道教室をやっていて、同じ学校の友達が習いに来ていて、それなりに賑やかだった。
確か小学校3年ぐらいか…もっと小さかったかもしれない。
ある日、その人がうるさいからと言って玄関から入って来て、墨汁を家の中にぶちまけたのだった。
私は呆然とその光景を見ることしか出来なかった。
唐紙は墨汁で真っ黒になって、天井にまで墨汁のシミが付いた。
ただただ怖かった。
なぜそんなことをするのか理解が出来なかった。
その後もその人は何度も怒鳴り込んできて私を震え上がらせた。
その人はさらに「私の名前とその人の名前が似ているから気にくわない」と叫んでいた。
私は名前で呼ばれるのが怖くなった。
家には度々無言電話がかかってくるようになった。
相手は間違いなくその人だ。
私は電話も怖くなった。
その人に会うのが怖くてその人の家の前を通る時は小走りに駆け抜けたり、遠回りしてでも違う道を歩くようになった。
歩いている姿を見かけたら逃げるように家にとって返したし、道端で見かけたらとにかく隠れて見つからないように祈った。
本当に怖かった。
けど、恐ろしい事にそんな記憶をすっかり忘れていたのだ。
自分でもびっくりした。
最近自分の棚卸し作業をしてくださいと言われて「幼い頃に育った環境」について聞かれたのに、このエピソードは全く出てこなかった。
私は実は不安障害なのではないかと思うぐらい人が怖い。
山登りが趣味で一人で山に行くけど、前後に誰もいない時間が一番好きで人の気配がすると警戒してしまうぐらい人が実は怖い。
フレンドリーに見られるけど、本当は物凄く人が怖くて一人きりの時間が一番安心していられる。
自分でもおかしいと思っていたけれど、もしかすると、もしかすると、この幼少期のトラウマが自分の中にずっと隠れていたからかもしれない。
大声で怒鳴る人が怖いのも、電話が怖いのも、名前で呼ばれたくないのも…
名前が似ているだけで存在を否定されて、とにかくその人を怒らせないように怖くて怖くてたまらない日を過ごした数年間。
その人はいつ頃だったか忘れたけど引っ越す事になって、今はその家があったところは駐車場になってしまっていて、その存在を忘れてしまっていたけれど。
その時の恐怖は心の奥深くに住み着いて、30歳を過ぎても自分を苦しめていたのかもしれない。
そんな風に思った。
ちなみにこの記憶に引きずられてもう一つ思い出した記憶がある。
今思うとどれだけ治安が悪かったんだと思うが、私が住んでいた町はシンナーを吸っている人がいて夜中に奇声をあげている事があった。
ある時は駐車場に止めていた車のバックワイパーを折られたこともある。
夜中に聞こえてくるその人たちの喋り声や奇声がこれまた怖くて怖くてたまらなかった。
私には姉がいるのだが、姉はなぜだか熟睡出来ており、その奇声が聞こえても起きることはなかった。親も二階で寝ていたからかあまり気にしていなかったようだ。
私が寝ていた部屋は道路に面している部屋で、今の洋風の建物と違い壁も薄く大きな窓がついていたので、道を歩いて騒いでいる人たちの気配までも察知出来た。
物音をたてたら、何かされるのではないか?
そう思い、私は暗闇の中で一人息をひそめてその人たちが遠ざかるのを待っていた。
そんな記憶もいつの間にか忘れていた。
「自分はなんで少しの物音で起きてしまうのだろう?」「なんで大声を出す人が怖いのだろう?」としか思っていなかったが、どう考えてもこの小さい頃の経験が影響している気がする。
さて、ここでようやく本題だが、最近読んだアドラー心理学の本「嫌われる勇気」では「トラウマは存在しない」としている。
アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。(中略)
「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作り出している」と考えるのです。(中略)
「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。
アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。
ー嫌われる勇気より
これを読んだ時、私は「過去の経験や自分の性格を言い訳にして行動しないのは現在の裏の目的を達成するためのダサいこと」なんだと理解した。
小説家になりたいと言っているのに、本当は才能が無いことがバレるのが怖いからいつまで経っても応募しない人のエピソードは自分の心に突き刺さった。
非常に厳しい言葉だけど、確かに何かと理由をつけて行動出来ない事がある自分にとっては目の覚めるような思いだった。
これは素晴らしい考え方だ。
そう思った。
だからトラウマというのは現在の自分の行動を言い訳するに過ぎない良くないものなのだと。
しかし今回の過去のトラウマを思い出した時にふと思った。
「トラウマは存在しない」と書いてあったけど、この私の幼い頃の経験を「トラウマ」と言わずに何というのだろう?
しかも自分はこのエピソード自体をすっかり忘れていたのに「目的」なんてあるのだろうか…?
もちろん私が「昔このような経験があったから電話が怖い。」と無意識でも思っていたら、私の本当の目的は「電話を取る事によって傷つきたくない。」になるかもしれない。
しかしそうだからと言って「トラウマは存在しない」と言い切れるのだろうか?
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗でもない。
われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
う~ん。
つまりトラウマに苦しんでいるのではなく、目的にかなうものとして経験を見つけ出してそれを「トラウマ」と言っているだけという事なのだろうか?
けど私はこの経験をすっかり忘れてたんだが…その場合はどうなるのだろうか?
本当にトラウマは存在しないと言えるのだろうか?
たとえばある人の過去に、両親の離婚という出来事があったとしましょう。これは18度の井戸水と同じ※、客観の話ですね?一方、その出来事を冷たいと感じるか温かいと感じるか。これは「いま」の、そして主観の話です。過去にどんな出来事があったとしても、そこにどんな意味付けをほどこすかによって、現在のあり方は決まってくるのです。
※井戸水は年間通してほぼ18度だが夏に飲むと冷たく感じ冬に飲むと温かく感じる。18度という事実は変わらないのに感じ方が異なるという話。
ここまで読んでなんとなく分かってきた。
この幼い頃の私の経験は今の私が「トラウマ」と解釈したから「トラウマ」であるのだと。
そして出来事としては変わらないけれど、この出来事をもし私が「経験」「成長の糧」「学び」と解釈したら、それは「トラウマ」ではなくなるという事。
だから「トラウマは存在しない」のである。と。
どうでしょうか?
物凄く頭を使いました…。(なので以下丁寧口調になります)
けどだからと言って「トラウマは存在しない」とは、やはり言い切れない気がします。
だってその人がその出来事を「トラウマ」と認識したのであれば、それはその人にとって「トラウマ」として存在しているのですから。
だからむやみやたらに「トラウマなんてものは存在しないんだよ。君の考え方次第でトラウマは消えるんだ!」と言われても悩んでいる本人にとっては全く嬉しありません。
逆に真面目な人ほどトラウマをトラウマとして認識してしまい、それを言い訳にして困難に立ち向かえない自分を責めてしまう事すらあると思います。
だから私は「トラウマ」はやっぱりあると思います。
そして「トラウマ」は困難に立ち向かう勇気を削っていく恐ろしいものだと思います。
イジメられたことが無い人は学校に行くのに何も考えないでしょうが、「イジメられたトラウマ」がある人は、やはりイジメられたことが無い人に比べて学校に行くだけでも一苦労するようになります。
これを「解釈の仕方が大事なんだよ★」なんて言われたら私は間違いなくキレます(笑)
虐待された人、親に馬鹿にされ続けた人、訳もなく仲間外れにされた人、そういうマイナスな出来事を経験した人は、どうしても行動を起こす時に困難が生じます。
(その出来事をマイナスと捉えるのも主観の話だと言われたらそれはそうかもしれませんが、そんなこと子どもが自分で気づけるわけが無いので自分を責める必要はないと思います。)
けど、1つだけ言えるのは「トラウマ」があるからと言ってずっと困難に立ち向かえない理由として良いわけではない。
という事です。
私もこの幼い頃の二つの出来事で人に対する恐怖心が生まれてしまったのかもしれません。けどだからと言って「私は人づきあいが一生上手く出来ないんだ」とずっと言い続けていていい訳ではありません。(困ってないなら良いですが)
あの隣の人はたまたまおかしかっただけで、他の人間みんながそういう訳ではない。
本当に怖かったと思う。けど今はもう大人になった。大丈夫。
だから必要以上に人を怖がらなくてもいいんだよ。
と、自分を受け入れてあげること。
そうすることで、ようやくトラウマから解放されてトラウマが存在しなくなるのではないでしょうか?
今回は自分がすっかり忘れていた事をいきなり思い出して、そこからアドラー心理学を自分なりに解釈してみましたがいかがだったでしょうか?
正直本を何となく読んでいるだけだとこんなに深く考える事はなかったので自分でもびっくりしています。
自分の中でまだまだすっかり忘れている「トラウマ」たちがたくさんあるのかもしれませんが、ひとつひとつ解釈を変えていければいいなと思います。